随想録 2003年2月


2月11日 生きる力

二次方程式など生きる上で必要ないと主張する人がいる。果たしてそれは本当なのだろうか。

二次方程式が生きる上で必要ないと言うならば、どんな古典文学も必要ないし、言葉が聞けて喋れるなら無理して外国語なども覚えなくてもよいことになる。つまり、上記の主張は、およそ文化というものは生きる上で必要ないと言っているようなものだ。このように述べると、「いや待て、日本人にとって英語はこれからの国際社会で必要だし、古典などの教養もいる。だけど、二次方程式なんて、何の役に立つというのか?」と聞こえてきそうだ。

断言しよう。二次方程式を含む算数・数学は、人間の考える力を鍛える上で非常に実用的なものなのだ。考える力は直接生きる力に繋がる。考える力という抽象的な事柄は扱うのが難しいので、人はすぐに具体的な「何か」に置き換えようとする(特にマスコミにその傾向がありそうだ)。しかし、これを具体的な例だけで説明することは大変難しい。

数学は科学を語るための言語でもある。そして、科学のそれぞれの分野(化学・物理・生物など)は、相互に関係し合っている。ところが、現在の小学校・中学校で扱う科学(理科)は分野で細切れになっており、相互の繋がりがほとんどないという。その上、それらを語り合うための言語である数学(算数)についても学ぶ分量が絶対的に減らされている。これでは、それぞれの繋がりを見出すことすら難しい。

人類が数千年かけて培ってきた、科学・数学を含む文化を吸収せずに我々はどのように向上していくというのか。人間は向上心を持ち、考える力をつけることで進化してきた。しかし、人類の持つ知識を学ばずにどのように進化しようというのか。縦令、自らは考えているふうを装っても、知識の土台がなければそれはせいぜい「車輪の再発明」で終わるのが関の山だ。考えない・学ばない人間はただ単に生きているというだけである。そこから何が育つというのか。澱んだ溜池に浮かぶ枯れ枝と一緒だ。そしてその場で朽ちて沈んでいく。

ここでの趣旨は、数学を学べということではない。もちろん数学を学ぶ必要はあるが、それだけのことではないのだ。学問はそれぞれ相互に関連がある。だから、数学だけでなく古典や外国語を含む学問(延いては文化)を学ぶことは、すべてにおいて意味があるということを言いたいのである。そして、これを実践したときに、本当の生きる力が得られるのではないだろうか。



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